釣りと殺生について。
仏教の世界では生き物を殺すこと自体が「殺生」という悪です。
私は宗教家ではありませんが、これは昔から悩んでしまうテーマの一つでした。
もちろん、食べる目的の魚もいれば、そうでない魚も普通に傷つけるし、結果的に殺してしまうことだってありました。
ゴミの問題も釣りをしていて避けられない話でしょう。
避けられないルアーロスト。
予期せぬラインの高切れ。
気を付けていても起こる可能性のあることを、私はやってきました。
こんな悩みを解決、はしないものの、和らげてくれるマインドを今日はご紹介したいと思います。
傷つけたから、守ることができる
この言葉は、私が高校生の時、エクストリーム社の小川健太郎氏が発信した言葉です。
答えは簡単です。
- 釣りが楽しくて仕方がない私。
- 水辺に興味がない他の人たち。
最終的にどちらが愛しい水辺を守ることができるでしょうか。
傷つけてしまうけれど、その行為は対象を理解しようとする行為に違いありません。
けして傷つけたいという欲求からくるものではありません。
対象を押さえつけて、根こそぎ獲り尽くし、水辺を支配しよう、独り占めしてやろう。
少なくともそんな気持ちは、私には微塵もありません。
奪ってしまった命より、生かしてくれた命に目を向け、感謝する
真言宗の僧侶様から頂いたお言葉です。
人間は漫然と生きているようでも、人間の命は他の命の上になりたっています。
そこに害意がなく、感謝の心があれば「守りたい・もっと愛したい」の意識は自然とわいてくると信じています。
奪う命に罪悪感はあります。
しかし、水辺を思いやる気持ちをもって接する時、それをエゴイズムと呼ぶことはできるのでしょうか。
私たち釣り人は、誰よりも水辺の事を気にかけ、愛する機会を持っています。
もし、魚が釣れなかった時。
釣りができない状況になってしまった時。
水辺で嫌な思いをするようなことがあった時。
それでもなお、水辺やそれを取り巻く人間を含む社会を憎まず、
慮ることができるのであれば、釣り人は水辺を愛していると言っていいと私は考えております。
そして、守ることができるのは、愛する気持ちがあってのことです。
自分が快楽を得るためだけなハズの釣りが、
それ自体によって苦しさや辛さを感じたとしても、愛する覚悟をする事。
皆様、お持ちですか?