PHILOSO-FISH ふじいの釣りと哲学

関西を拠点とした釣りの記録と、釣りを哲学・心理学・倫理の観点で捉えた考察を紹介します。

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「釣った」だけが幸せか?

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「その魚は「釣った」ではなく、「釣れた」でしょ!」

釣りをある程度経験されてきた方なら、誰しもが聞いたことがある事と思います。

 

確かに、釣りの上達において自分の意図したように釣れた、という事実は一定の指標となるでしょう。

では、釣りの目指すところは「釣った」の追求だけなのでしょうか。

今回は「釣った、釣れた」の関係性について、考察を深めます。

 

 釣った、とは

まず「釣った」の考察をしましょう。

狙った場所・時間で、ヒットするであろうルアーを想定し、その条件で思い通りに釣る。

その為の技術向上のための研鑽や、研究は皆様時間や労力を釣り人は惜しまないでしょう。

突き詰めていくと、私たちは魚・水辺・釣り具を完全に理解し、思うがまま魚を得られるアングラーになっていくと思います。

まるでRPGゲームの最強の装備、最高レベルを手に入れた状態ですね。

しかし、そのゲーム、今面白いですか?これから先続けられますか?

そうなんです。

そのレベル上げの苦難の過程があったから、ゲームは面白いのです。

 

釣りにおいては「わからないを探求し続ける」からこそ面白いのですね。

 

一例で「完璧に釣れるアングラー」を挙げました。

逆もしかりです。

つまり

「もう自分じゃこれ以上釣れない」

と諦めてしまうアングラーですね。

釣りの上達に希望を持てず、自分の限界を定めてしまう事は、

不正に繋がりかねません。

釣ることができなかったことに意味がない、なんてことはありません。

それも含めて釣りには魅力があることに気付かなければなりません。

「釣った」の追求だけをすると、自分の釣り人生を破壊してしまいます。

釣れた、とは

一方「釣れた」の状態とは、

予期せぬ形で魚の反応があったことを指しますよね。

いわゆる「マグレ」と言うものです。

釣り人の上達度に関わらず、初心者だろうが寝ていようが、

偶然いい魚に出会える事って釣りにおいてはよくある話です。

これは、釣りの感動の原体験とも言えます!

どんなアングラーも、最初は「釣れた」から始まります。

このハジメテノイッピキというのは、感動に満ち溢れています。

電撃のように走る快感とでも言いましょうか。

そんな「釣れたイッピキ」を見つめて、

しかめ面をできる人はそういないでしょう。

 

しかし、マグレだけを追い求める事もまた、釣りの楽しみを見失っています。

「そもそも釣れなくてもいいから、たまに釣れればいいや」

何も考えずに、待つ事自体を良しと考える方も少なくないでしょう。

しかしこの態度は、「魚への理解・歩み寄りの放棄」をしているとも言えます。

釣りと言う行為は、釣り糸を通じて魚や自然への理解を深める事にも喜びがあります。

思考停止の状態では、相手の事を何一つ理解しえません。

釣りの楽しみは理解を深めるプロセス

「釣った、釣れた」に共通する喜びを抽出してまとめると、

「探求⇔理解の繰り返し」と言えます。

 

まずはどんな人もスタートは「釣れるかな?(探求)→釣れた!」

釣れた魚から「この場所にいて、こう釣れるのか(理解)」

また、次のパターンを探します「こっちでは、このルアーではどうだろう(探求)」

結果から「こっちでも釣れる、このルアーではダメ(理解)」

 

どうでしょう。

釣ったより釣れたが優れているなんてことはありません。

相互に作用するものであり、そうあるからこそ釣りが楽しいのではないのでしょうか。

 

「釣れた」信奉の多くの人は見栄を張って

「コレコレコウヤッテ『釣った』(オレスゴイ!)」となりますが、

沢山の「釣れた」があるからこそ、「釣った」を増やす事ができます。

外聞を気にせず、素直に「釣れた!」を喜び、

釣りが秘めている沢山の可能性を感じましょう。

 

釣ったも釣れた、どちらも喜ぶことができたら釣りはもっと楽しくなりますよ!