PHILOSO-FISH ふじいの釣りと哲学

関西を拠点とした釣りの記録と、釣りを哲学・心理学・倫理の観点で捉えた考察を紹介します。

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リリース禁止とナチズム

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釣れたバスはリリースしますか?駆除しますか?持ち帰り、食べますか?

現在のバスフィッシングにおける、釣れたバスの処遇は上記の3つです。

今回はリリース禁止条例と生物の命の重さの天秤について、考察をします。

これは法律と倫理の話です。絶対的な結論は出ません。

バサーの皆様や、生物多様性保護の内の外来生物駆除派の皆様にとって、

悔いのない人生を送る基準の数ある内の一つとしてこの記事を

読んで頂ければ嬉しいです。

記事の終わりには、リリース禁止条例場所のバサーに残された、

成熟した釣り人にしかできないバスフィッシングの尊厳の守り方の

提案をします。

※今回の記事はあくまでリリース禁止場所でのバスの取り扱いについての考察です。


変化する正義と行為について

時代を超えて不変の正義は本当にあるのでしょうか。

宗教は、科学の発展でその価値観は全盛期のそれとはずいぶん形が変わりました。

国境は言わずもがな、今当たり前のように区切られている線は、

時代時代で何度も書き換えられました。

お金の価値は?中央集権的な絶対的なものだけではなく、

仮想通貨のような相互認証による価値も登場し、時代は変わろうとしています。

では、ブラックバスの命は?

生物多様性の価値は?

これらは絶対でしょうか。永久不変なものでしょうか。

何かをする、立場を決める時に自分の中で一定の基準を設ける必要があります。

その為に多くの研究者の資料を読み、現場の声、関係者の声を聴き、それに基づき決定します。

そうして築いた思想で、駆除をした・リリースしたという行為の理由や

動機を説明することはできます。

しかし、その後その行為を無かったことにすることも、

その行為者の責任を免除する事はありません。

条例を破ったことも、命を選別したことも、なかったことにはできません。

今自分がとっている立場は、どんな覚悟がありますか?

ナチスドイツの優生政策

ケーススタディです。

 

あなたが我が子といる時に、強盗団に襲われました。

強盗団は我が子を人質にとりました。

あなたに包丁を渡しました。

強盗はあなたに善良な市民を殺害するよう指示し、

さもなくば我が子を殺すと言いました。

あなたは善良な市民を殺害すると、殺人の罪をかぶります。

殺害しなければ無罪ですが、我が子を失います。

あなたはどうしますか?

 

これはナチス統治下のドイツに同様のことが起きていました。

善良な市民が、ユダヤ人を仕方なく迫害し、絶滅政策に加担しました。

 

あなたは、条例によりバスの殺戮を命じられています。

条例に反すると、条例違反者となります。

バスの命を奪うと、あなたが大切にしている良心が破壊されます。

何よりもバスを大切にしているバサーからすると、

まさに究極の選択を迫られています。

 

バサーの現状を考えるに

「私は命を選別することはできない!条例違反してでもリリースする!」

と決めたとしましょう。

その決断でバスを守ることはできるでしょうか。

バスが悪者になったのは、

もちろんその生態に由来するものではあります。

しかし、バスが悪者になった一番の理由は、バサーのイメージからです。

現状のバスフィッシングの状態を客観的に見た上で、

条例違反禁止行為をしている所を見た時に思うのは

「なんか悪そうな人が悪そうな魚を釣って、条例違反している」

ルールを破ってい「そう」なだけでも、

市民がバサーに向ける目はその程度です。

バサーによる血のにじむような社会貢献活動も、

「条例違反」にはかないません。

そう考えると、リリース禁止条例は守らざるを得ません。

バスの尊厳を守るために、バスのリリースを辞める。

ではバス釣りを辞めろというのか!?

そうではありません。

美味しく頂くのです。

食べられる分を釣ったら、それ以上釣らず、

釣りをストップしてしまうのです。

釣りは沢山釣る事が正義ではありません。

 

沢山釣る事だけが釣りの満足を高めてくれると思うの、やめませんか?

この視点に立ったら、バス釣りも楽しめるし、

美味しく食べる事でバスの魅力ももっと知ることができます。

外野から見れば、条例違反は少なくともしていなさそうに見えるし、

おまけに熱心に清掃活動もしている人もいる。

条例違反もせず、バスの命を差別的に殺戮せず、

バスフィッシングと自分を融合させることって実は可能なんです。

 

沢山釣ってチヤホヤされることがバス釣りの喜びですか?

それともバスフィッシングができる環境があり、

バスフィッシングが理解されることが喜びですか?

上記のどちらかを残すのであれば、どちらを残したいですか?